1ミリの後悔もない、はずがない(新潮文庫)
一木けい(著)
/新潮文庫
作品情報
「俺いま、すごくやましい気持」。ふとした瞬間にフラッシュバックしたのは、あの頃の恋。できたての喉仏が美しい桐原との時間は、わたしにとって生きる実感そのものだった。逃げだせない家庭、理不尽な学校、非力な子どもの自分。誰にも言えない絶望を乗り越えられたのは、あの日々があったから。桐原、今、あなたはどうしてる? ――忘れられない恋が閃光のように突き抜ける、究極の恋愛小説。(解説・窪美澄)
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この作品のレビュー
平均 4.0 (101件のレビュー)
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あなたは、『今までの人生でいちばん後悔していることは何ですか』と訊かれたらなんと答えるでしょうか?
人は日々を生きていく中で、さまざまな思いを抱きます。嬉しかったこと、悲しかったこと、そして悔しかっ…たこと、そんなそれぞれの感情もやがて過去のこととなり、あることは忘れ去られ、あることは記憶に残り続けていくことになります。そんな中でも、あの時あんなことをしなければよかった…そんな思いが残るものが『後悔』です。慎重に、十二分に気をつけて生きていても『後悔』に繋がる事ごとは日々起こり続けていきます。
そして、そんな『後悔』の思いは、人によっても異なります。『後悔』を訊かれて『牛乳嫌いを克服しようとしなかったことですかね』、そんな答えをする『三十前後とおぼしき、小柄で色白の女』を見ると『自虐するふりしてぜんぶ自慢』と、それを見る側には複雑な思いが沸く場合もあるでしょう。『後悔』というものは、あくまで個人に属するものであって、その人の心の中にのみ刻まれるものなのだと思います。
さて、ここに、『うしなった人間に対して1ミリの後悔もないということが、ありうるだろうか』と、かつて愛した男性が語った言葉をいつまでも忘れられない女性が主人公となる物語があります。そんな男性の問いに、『わたしがどう答えたかも覚えていない』というその女性。この作品は、『わたしは桐原に求められている』という中学時代を遠くに見る一人の女性が『後悔』という言葉を噛み締めながら生きる物語。さまざまな人物への視点の切り替えによって、そんな女性の生き様を感じる物語。そしてそれは、男性が
語った言葉を『わたしはその後の人生において、何度も、折りにふれて思い出すことになる』一人の女性の人生を見る物語です。
『イカなんて何度もさばいたことがあるのに、魚が出てきたのははじめてだった』と、さばこうとしたイカの体内から『丸々と太った魚』が出てきたことに戸惑うのは主人公の由井。そんな時『ふっと、桐原のことを思い出した』由井は『脳の奥から、あの日々がじわじわと染み出してくる』という中学時代を振り返ります。『西国分寺駅から十五分ほどの場所にある一軒家で』『母と妹と三人で暮らしていた』由井。『桐原を思い出すとき、まず脳によみがえるのは喉仏だ』と『桐原が歌うとき、笑うとき、つばを飲み込むとき』に『上下に動いた』喉仏を思い出します。『わたしの左の席に腰を下ろしたのは金井という陽気な小太りの男子』が『桐原っつうの』と紹介した桐原は『一年の三学期に私立中から編入してき』ました。そんな桐原に惹かれた理由を『色気』だと思う由井は、『最初の席替えで』となりの席になります。そして、『桐原と金井とわたし、それからミカという女子バスケ部の子と四人でいることが多くなっ』ていきます。そして、『中二の三学期』となり、家のポストに入った茶封筒を見て『いやな予感が』した由井。封を開けると、中には『父の生活保護申請に関する書類』が入っていました。『金銭的な援助ができないかどうかの確認』というその書類。そして、翌日、そんな書類を『母にたのまれてポストに投函した』由井は、その足で『二泊三日のスキー教室へ』と旅立ちました。『レベル分けで、桐原は最上級のA、わたしは超初心者のDクラス』と『びっくりするくらい遠』いことを嘆く由井は、『最終日の夜、夕食の食器を下げるときに「今夜ここにふたりで来てみない?」と桐原に提案し』ます。『見回りに来る先生の目をぬすんで、部屋を出た』由井は、大食堂へと向かいます。そして、落ち合った二人は、『距離を置いて横にならんで壁にもたれ、他愛もないことを話し』ました。『あの日しゃべった内容はほとんど記憶から消えてしまった』という今の由井は、一方で『ひとつだけ明確に憶えていることがあ』ります。『うしなった人間に対して1ミリの後悔もないということが、ありうるだろうか』という『桐原が発した問い』。『その一文を、わたしはその後の人生において、何度も、折りにふれて思い出すことになる』という由井。しかし、『廊下が騒がしくなって』きたのに気づいた二人は、障子が開いたその先に『こめかみに血管を浮かせた担任が目を剝いている』姿を見るのでした。そんな由井のそれからが、さまざまな人物に視点が切り替わりながら描かれていきます。
“ふとした瞬間にフラッシュバックしたのは、あの頃の恋。できたての喉仏が美しい桐原との時間は、わたしにとって生きる実感そのものだった…忘れられない恋が閃光のように突き抜ける、究極の恋愛小説”と内容紹介にうたわれるこの作品。2016年に第十五回「女による女のためのR‐18文学賞」で読者賞を受賞し、一木けいさんのデビュー作となったのがこの作品です。五つの短編から構成されていますが、受賞作は冒頭の短編〈西国疾走少女〉であり、残りの四編はそんな受賞作の主人公である由井を他の人物視点で語っていく形で書き下ろされた短編となっています。
では、そんな短編について読みどころと思える部分を三点あげたいと思います。まず一点目は、冒頭の書き出しです。この作品は一木けいさんのデビュー作です。〈解説〉の窪美澄さんがおっしゃる通り、”当たり前のことだが、デビュー作というのは一生に一回しか書けない”というデビュー作の冒頭をどんな一文で始めるかはその作家さんの印象を左右もしますし、その作家さんの考え方を知る機会でもあります。私は今までに3年少しの期間の中で600冊以上の小説を読んできました。そんな中で作家さんのデビュー作として印象的だったのは、なんといっても”そいはするんとうーちゃんの白いゆびのあいだを抜けてゆきました”という、まさかの”かか語”で始まる宇佐見りんさん「かか」です。幼き主人公の衝撃の瞬間を漢字一文字、残りはひらがなだけの一文で表現する冒頭はまさに圧巻です。そして、一木さんがこの作品冒頭に用いたのはこんな一文です。
『イカの胴体に手を突っ込んで軟骨をひっぱり出した』。
まさかの調理場面、そんな食材に『イカ』を登場させ、しかも『手を突っ込んで軟骨をひっぱり出』すという光景は一見奇異にも映ります。さらに、『ずるりと引きずり出したものには、目玉がついていた。肌が一気に粟立つ』と続く表現には、ホラー?と感じさせるような緊張感さえ伴います。もちろん、この作品はホラーでもなく、なるほどと穏当な展開で物語はスタートしていきます。”バンコクでイカをさばいたとき、実際に体験したことです”と作者の一木さんがおっしゃる通りまさかの実話を落とし込んだというこの冒頭表現。作品のインパクトという点では読者に強く残るもの、まさに鮮烈なデビュー作冒頭だと思いました。
次に二つ目は、視点の切り替えによる物語進行という点です。連作短編で短編ごとに視点の主を変化させていくという手法はまさしく王道です。問題は、そんな視点の主を誰にするかで見えてくる世界が全く異なるところです。ここで、五つの短編の視点の主と物語を整理したいと思います。
・〈西国疾走少女〉: 視点の主 - 由井、『イカ』の調理をする主人公の由井は、『母と妹と三人で暮らしていた』中学時代を振り返ります。そこには、『いいことなどなにひとつないこの世界ではじめて得た宝で、生きているという実感そのものだった』という桐原との大切な想い出が刻まれていました。
・〈ドライブスルーに行きたい〉: 視点の主 - ミカ、『選挙事務所のスタッフ』として働く主人公のミカは、トイレが我慢できなくなったことをきっかけに中学時代の同級生・高山と再会します。『もっさりしたおじさん』となっていた高山に覆いかぶさられるミカ。そんなミカは中学時代、由井との出会いを振り返ります。
・〈潮時〉: 視点の主① - 雄一、飛行機の中で『酸素マスク』が降りてくるという事態に遭遇した主人公の雄一は、妻の由井と娘の河子(かこ)のことを思い浮かべます。視点の主② - 加奈子、二児の母である主人公の加奈子は、偶然に夫の不貞の映像を見つけます。そんな加奈子は、中学時代に好きになった桐原と、そんな彼と付き合う由井のことを思い出します。
・〈穴底の部屋〉: 視点の主 - 泉、義母の家に来ている主人公の泉は義母からさまざまな嫌味をいわれます。夫と共に自宅へと帰った後、子供を寝かしつけた後、『ディスカウントストア』へ行くと言って家を後にした泉は高山の元へと赴きます。『ジャージを突き上げる性器』に『顔を近づけていく』泉という二人の逢瀬。(由井登場せず)
・〈千波万波〉: 視点の主 - 河子、『誰もいない』『白い砂浜』に母親の由井と座る主人公の河子は『親友だった』多麻のことを思います。中学に入って急に河子に冷たい態度をとるようになる一方で、『女子のヒエラルキーのトップにのぼりつめ』た多麻。そして、学校に行けなくなった河子は、母親と九州に旅をします。そんな中に、母親・由井の中学時代の話を聞きます。
五つの短編は、思った以上に予想外な人物へと視点が展開していきます。その一方で、物語の核心とも言える”あの人”に切り替わることがありません。このもどかしさが逆にこの作品がとてもうまい作りでもあるのだと思いました。
最後に三つ目は、一木さんの独特な比喩表現です。
・『桐原の脚は机に納まりきらず、通路にはみ出していた』という光景をこんな風に表現します。
→ 『朝の味噌汁に入れるアサリみたいに。そのはみ出した分くらいしか他人を受け入れない、容易に心を開かない頑なさが、上履きの先からにじみでていた』。
・『中学生だった。わたしはスカートをひるがえし、夜の西国分寺駅に向かって疾走していた』と桐原の元へと向かう光景をこんな風に表現します。
→ 『恐怖などない。もうすぐ桐原に会える。ただその悦びだけ。サバンナを駆けめぐる動物のように、前を見て地面を蹴っていた』。
二つを取り上げましたが、いずれも生物が見せる一瞬の状態を比喩に上手く用いた表現です。これから読まれる方には、こういった表現の登場にも是非ご期待ください。
そんなこの作品で一番に光が当てられるのは最初の短編〈西国疾走少女〉の主人公である由井です。『桐原を思い出すとき、まず脳によみがえるのは喉仏だ』と、中学時代の想い出のど真ん中にある桐原のことを思う由井。内容紹介に”究極の恋愛小説”とうたわれるそんな由井の青春の想い出は、鮮烈です。そんな由井の心の内を一木さんは、さまざまな表現を用いて表していきます。
・『桐原に会うために疾走しているときはいつも、命を生き切っているという実感があった』。
・『わたしは桐原に求められている。目の前の愛しい男は今、わたしに受け入れてもらうことだけを渇望している。ずっと探していたものはこれだったんだ』。
そして、
・『桐原と出会ってはじめて、自分は生まれてよかったのだと思えた』。
こんな風に思われる側がどのような気持ちの中にいるのか?由井の一途な想いが滔々と描かれていく分、どうか、そんな由井の想いを成就させてあげて欲しい、そんな想いが読者の中にも湧いてくるのは必然です。そんな由井がたどる人生、由井に視点がもどることがない分、そんな由井のそれからは他の人物視点の中に描かれるものを見ていくことになります。その上で描かれるのは、”由井にとって何か違う形で光というか、希望を見いだせるものは何だろうと考えた結果、この結末になりました”と語る一木さんが、”由井の真意は、読んでくださった方に委ねます”と続けられるその結末です。
『うしなった人間に対して1ミリの後悔もないということが、ありうるだろうか』。
書名にも繋がるこの作品全体の主人公でもある由井の自問の中に、苦しい人生を歩んできた由井が、『すこしだけ自分を好きになれた』という瞬間の到来。過去の先にある今。そんな今の生活を受け入れて今の人生を生きる由井をさまざまに思う、そんな物語がここには描かれていたように思います。
『あの日々があったから、その後どんなに人に言えないような絶望があっても、わたしは生きてこられたのだと思う』。
そんな思いの先の今を生きる主人公の由井。この作品には由井の過去から今までの人生を彼女が関わってきた人たちの視点も加味しながら振り返る物語が描かれていました。視点が移って欲しい人物に視点が移らないもどかしさに苛まれるこの作品。描かれない結末にさまざまな想いが去来もするこの作品。
「1ミリの後悔もない、はずがない」という二重否定の意味に心囚われる書名がどこまでも尾を引き、切なさと儚さの感情に読者を包み込んでいく、そんな作品でした。続きを読む投稿日:2023.01.21
このレビューはネタバレを含みます
苦しい。本当に苦しい。
レビューの続きを読む
私には果てしない絶望感が残る読了後となった。
1ミリの後悔もない、はずがない
そう、そんなはずがない。
それが人生、と分かっていても、ここまで心を抉られる文章は今まで出会った…ことがなかった。
全章見事に苦しかった。
今日の朝4章を読んで仕事に行ったけど、ずっと頭で泉さんのことを考えてた。してること自体は絶対に良くないことは分かってる。でもそこまでの人に出会えた泉さんが少し羨ましくも思ってしまった。恋とか、愛とか、大恋愛だとか、そんな言葉には表せられない程の人の存在。私は一生出会うことないと思うな。出会いたいわけではないんだけども。なんて表したらいいのか分からない。こういう時に語彙力って大事になってくるなと、ひしひしと感じるなぁ。
帰り道では最終章を読んだ。最後の桐原からの手紙を読んで絶望に呑まれた。どの本を読んだ後にも得たことがない絶望感だった。たった一回の言動が、たった一回のすれ違いが、こうも人生を左右する。大人になった桐原に会いたくなった。今桐原はどう過ごしてるんだろう。
苦しいなぁ。
初恋は実らないってこういうことかな。
大人に振り回される人生で、少しでも由井の中で輝く記憶があることだけが救い。
私自身感情移入をしやすいタイプなので、結構引きずると思うし笑、再読するには勇気がいるくらい滅入ってしまった本だった。
でもすごくすごく、考えさせてくれる本だった。
出会えて良かった。続きを読む投稿日:2024.02.12
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