南部芸能事務所
畑野智美(著)
/講談社文庫
この作品のレビュー
平均 3.7 (8件のレビュー)
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『平和で安心して暮らせるならば、芸人はいなくて良くなる。生活で心が満たされればそれに越したことはない。それができないから芸人がいるんだ。辛い思いをしている人がいる時こそ、芸人は必要になる』。
人は大…人になって何かしらの職業に就きます。それは、もちろん生活のためということはあると思います。もしかすると、強く意識することなく周りの友達の就職活動に合わせてなんとなく今の職業に就いたという方もいらっしゃるかもしれません。一方で、幼い頃から”将来の夢”として描いた職業に就くことができた、という方もいらっしゃるかもしれません。憲法第22条に規定された職業選択の自由の中で私たちはそんな職業を自由に選ぶことができます。その選択の経緯がさまざまであるというのも当然のことだとも言えます。
しかし、そんな風に就くことになった職業にも、そのきっかけというものは必ず存在するはずです。上記したように、なんとなくという結果論の人もいるかもしれませんし、誰かの勧めがあってという場合もあるかもしれません。一方で、全く縁もゆかりもないと思っていた職業に就く場合は、そのきっかけも偶然である、そういうこともあるのかもしれません。
ここに、そんな風に偶然にも”ある世界”を知ってしまったことがきっかけとなってその道を選ぶことになった主人公の物語があります。『ライブを見にいこう』と友達に誘われたことで結果的にその世界を知ってしまった主人公。そんな主人公は『座布団も薄っぺらくて、五分座っただけで腰が痛くなった』というそんな場に来てしまったことを後悔しました。しかし目の前に予想外に展開した『生で見る芸人は、ただただおもしろかった』という結果論に主人公は驚くことになります。
この作品はそんな主人公が『芸人になりたいと思った。あの舞台にオレも立ちたい』と強く願う物語。そんな芸人の世界が『お笑い芸人は芸ができればいいってものではない』と気づく物語。そしてそれは、そんな主人公たちの『どうしても漫才師になりたい』と願いながら稽古に明け暮れる舞台裏を見る物語です。
『オレは今、とても後悔している』と、『座布団も一人一枚の余裕はなくて、隙間をあけないように詰めこまれ』た会場で思うのは、この短編の主人公・新城。『慣れないところへ行くと、必ず腹が痛くなる』という新城の横で『あれ、溝口じゃね?』と連れの橋本が指差しました。『スタッフと書いた紙を胸に』『客を案内』する溝口を見て『意外な奴が意外な場所にいるものだ』と思う新城。そして『客席から拍手が沸き起こ』りライブが始まりました。やがて『始まる前に感じた痛みはいつの間にか治まった』という新城は『生で見る芸人は、ただただおもしろかった』と『あっという間に』経った二時間を思い返し『芸人になりたい』『あの舞台にオレも立ちたい』と思います。『一緒にやっていく相方を見つけなくてはいけない』と考えた新城は、橋本にバイト先の先輩で『ものまね』をやっている津田あおいを紹介してもらいます。『本気で芸人になりたいと思っているんです』と訴え『相方になるような人が誰かいないかって考えてい』ることを話す新城に『新城君がどうなりたいかじゃないかな』と答える津田は、新城がどんな芸人像を持っているのかを問います。そして、『溝口君と組めばいいんじゃない?同じ大学なんだし』と言うと場を後にしました。『溝口という選択肢は考えもしなかった』と思うも『話したことさえない』相手にどう対峙すべきか戸惑う新城は、橋本に仲介を頼ります。そして、体育の授業で溝口を見つけ『ちょっぴりチャラいオレとインテリ系の溝口、身長も同じくらいだし、二人で並んだらきっとバランスがいい』と思う新城は『津田ちゃんに相談したら、溝口と組めばって言われ』たことを説明します。『橋本とか、仲がいい奴と組めば』と拒む溝口は、『ライブ会場の熱気に押されて』そんな風に思ってしまっているだけだと新城を諭すと場を立ち去りました。しかし『どうしても溝口と組みたい』とますます思いが募る新城は津田に連絡を取り、彼女の事務所へと訪れます。そこで社長からかつて溝口の父親が社長の相方だった話を聞きます。そして、『溝口を口説き落としたら、うちの事務所に入れてあげる』と社長に言われた新城はさらに決意を固めます。そして、再度溝口に会った新城は『オレはどうしても、お前と一緒にやりたいんだ』とその熱意を伝えました。そんな新城に『サンパチマイクってわかるか?』と訊く溝口は『ネットでいいから、今日中に調べておけ』と答えます。『一緒にやってくれんの?』と確認する新城に『とりあえず、一年な。それで駄目だと思ったら、他の相方を探す』と答える溝口。そんな溝口は『漫才やコントのDVD、落語のCD』などを新城に渡し、『次の日曜日までに一通り目を通』すよう指示します。驚いて『大学の試験がもうすぐあるじゃん』と言う新城に『両方、がんばれ』と返す溝口。それを聞いて『ちょっとトイレ』と、『急激に腹が痛くなった』新城は『こんなに腹が弱くて、オレは舞台に立てるのだろうか』と思います。そして『南部芸能事務所』に所属し、舞台に立つ日を夢見て研修生としての日々を送りはじめた新城。そんな新城が所属した『南部芸能事務所』の面々に順番に視点を移しながら、新城たちのその後、そして芸人さんの舞台裏を描く物語が始まりました。
“弱小お笑いプロダクション「南部芸能事務所」のひたむきな人々を描く”畑野智美さんの人気シリーズの第一弾として登場したこの作品。七つの短編が連作短編の形式をとりながら展開していきます。連作短編は私の最も好きな形式ですが、畑野さんの連作短編は、その短編間の密度感がとても濃いのが特徴です。一つの短編の中で視点の主だった主人公が他の短編では背景に登場する人物として描かれていく、というのが連作短編の基本的な組み立て方ですが、背景の中でもイメージがどんどん上書きされてその印象が薄まるどころか濃くなっていく、読み終わる段になってそれぞれの主人公のイメージが色濃く浮かび上がる、この作品はそんな構成になっています。一例として、三編目〈中間地点〉で主人公を務める『ナカノシマ』という三人組について見てみたいと思います。『ナカノシマ』の登場は主人公を務める三編目の前の二編目〈ラブドール〉に、『中野君と中嶋君が生活苦で瘦せていっているのに、野島君だけはアルバイト先の中華料理屋さんの賄いのおかげで会う度に横幅が大きくなっていく』という野島の『デブキャラ』を売りにしている三人組であることが匂わされます。そして光が当たる〈中間地点〉では、『野島が解散を言い出すのは今年だけでも三回目だ』と野島と中嶋の確執が取り上げられます。その一方で『ナカノシマのコントは三人の仲の良さが伝わってきて好きです』と女の子に声をかけられ喜ぶシーンが挟まれる〈中間地点〉。その後、視点が移動し背景の存在となりますが、『ナカノシマはゲームやまんが好き芸人として、オタクの間ではカリスマ的な存在になりつつある』と存在感を引き続き持っていることが示される一方で、『三人は仲が良くて、いつも一緒にいる。たまにけんかをするみたいだけれど、気がつけば仲直りしていた』と、〈中間地点〉で見せた確執は残っているものの、それが逆に普通の状態であるかのように三人組として続いていることが暗示されます。この作品には複数の芸人が登場します。そのいずれもが強烈な個性の主であることが分かりますが、いずれもこの『ナカノシマ』のように全編に渡って、その存在があちらこちらに描かれていき、その存在が最後まで消えることはありません。この「南部芸能事務所」はこの作品の後もそんな彼らの活躍を追っていくかのようにシリーズものとして続いていきますが、それができるのは、畑野さんの短編間を紡ぎ上げるように組み立ていく連作短編の巧みな構成の技があってこそなのだと思いました。
そしてもう一点興味深いと思ったのが四編目〈グレープフルーツジュース〉です。この短編では誰に視点が移動するのかな?と思った中で登場するのが、『わたしは、小学生の頃からスパイラルを追いかけている』という『スパイラル』の追っかけをする成瀬というまさかのファンの視点でした。『制服で来ているのはわたしだけだ。早く高校を卒業して、もっと自由に追っかけをできるようになりたい』と願う高校生の成瀬。そんな成瀬は『わたしの夢は小学校五年生の頃から変わらない。長沼さんの奥さんになることだ』と二人組『スパイラル』の長沼に強いファン感情を持ち、『笑った顔から優しさがオーラになって溢れている』と長沼のことを強く思っています。全七編の真ん中の四編目にファン視点というまさかの変化球を入れることで物語は絶妙なアクセントを得て後半へと進んでいきます。それぞれの短編の位置どりという点でも非常に上手く組み立てられた作品だと思いました。
そして、そんなこの作品の中心となるのは冒頭の〈コンビ〉で偶然にもライブを見たことで、『芸人になりたいと思った。あの舞台にオレも立ちたい』と舞台へ立つことに邁進していく新城と、溝口がコンビを組むことになる物語です。同じ大学で顔は知っていても『話したことさえない』という二人の出会い、コンビ結成へと至る展開、そして研修生として『南部芸能事務所』での日々を送る二人。それは、『ナカノシマ』同様に連作短編の中で少しづつその過程が描かれていきます。この作品の表紙には二人の男性が並んで立つ姿が描かれています。向かって右が溝口、左が新城であり、この表紙をもってこの作品の主人公であることがはっきりと表されてもいます。しかし、上記の通り複数の芸人の姿が連作短編の中で紡ぎ上げられてイメージが出来上がっていくというこの作品の構成においては、この二人も例外ではありません。冒頭の〈コンビ〉でその二人が知り合って、『一緒にやってくれんの?』と確認する新城に『とりあえず、一年な』と返す溝口という場面までは強く光が当たる一方で、二編目以降一気に存在感が背景へと移行してしまいます。この辺り、一般的な物語の作りとして、二人のその後の舞台へと向かう流れを期待して読まれる方には、肩透かしを食うというか、物足りなさを感じるかもしれません。しかし、この作品ではそんな彼らも数多いる芸人たちの一組にすぎず、他にもスポットライトを浴びることを夢見てそれぞれの芸人人生を生きる人たちがいることが描かれていく中で、背景に登場する姿を逆に微笑ましく応援する気持ちが湧き上がってきます。そして、七編目〈サンパチ〉では、満を持して溝口に視点が移ります。そこには、一編目で新城に対して『駄目だと思ったら、他の相方を探す』と強気の姿勢を見せていた溝口の中にこんな感情が去来していることが語られます。
『新城は芸人になる才能を持っている。ボクが生まれてから二十年かけて知ったことを簡単に吸収していく』。
そんな溝口は努力の甲斐なく売れずに終わっていった父親の姿を思います。
『売れたい、どうしても売れている芸人になりたい』。
強い思いを抱く溝口は、思えば思うほどに逆に一つの現実に気づいてもいきます。
『今のままだと、ボクが新城の足を引っ張る』。
この短編が最後の短編である以上、一方の新城に視点が戻ることはありません。相方の溝口がこんな風に思っていることは当然に知る由はありませんが、一方で新城の溝口への思いも視点が移動しないために分かりません。しかしそんな二人が
『どうしても漫才師になりたい』。
そんな強い思いを抱いていることに変わりはありません。そして…というこの作品。実のところ”お笑いの世界”に全く興味のなかった私としては何も期待しないで読み始めた作品でしたが、こんなにも面白い人間ドラマがそこに広がっているとは思いませんでした。どこか物悲しさを帯びたこの作品。シリーズ続編も是非読みたい!シリーズものの第一弾を読んでこんなにも続編に手をだしたい!という読後直後の感想を抱いた作品は初めてです。連作短編の名手というと、私には青山美智子さんが絶対的存在でしたが、ここに畑野智美さんという名前も強く刻まれました。
『劇場に来ていただいたお客さん全員に笑顔で帰ってもらいたい』、そんな風に願いながら今日も舞台に立つ芸人さんの舞台裏を描いたこの作品。そこには、『笑わせるって、難しいよな』と、その道を極めていく芸人さんたちがお客さんたちのことを思い、真摯に舞台を捉えていく姿が描かれていました。同じように芸の道を目指しても、懸命に努力をしたとしてもその全員がスポットライトを浴びれるわけではありません。当然に光の当たる場所にいる人がいれば、反対の場所に生きる人もいます。それはどんな世界でも同じことだとも思います。この世に生きていくことはそんな簡単なことではありません。この作品では、そんな芸の世界で『売れたい、どうしても売れている芸人になりたい』という彼らの生き様が巧みな連作短編の構成の中に描かれていました。
お笑いの世界を描いているはずなのに、どこか物悲しい人の生き様を感じるこの作品。私たちが普段見ることのできない一見華やかな世界の舞台裏を垣間見る中に、力強く生きる人の熱い想いを感じた、そんな作品でした。続きを読む投稿日:2022.06.01
再読。
芸人ライブを見て、自分も芸人になると決めた大学生の新城。
元人気芸人との付き合いに悩む女ものまね芸人津田ちゃん。
中学の同級生3人で組むナカノシマの一人中野。
元人気芸人のおっかけをする高校…生ナルちゃん。
目の不調、相方との関係性に悩むスパイラルの長沼。
20歳下の夫に支えられる齢90の大御所芸人保子師匠。
売れない芸人だった父を持ち、新城と漫才コンビを組むことになった溝口。
このシリーズ大好きです。
それぞれが葛藤する姿がとても切ない。だからこそ、みんなが魅力的で応援したくなります。
ラストシーンのジワジワ来る盛り上がりに、心臓がドキドキしました。
続きに進みます。続きを読む投稿日:2019.12.27
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