この作品のレビュー
平均 4.0 (1件のレビュー)
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大学時代、趣味で民俗採集のサークルに入っていた時に、民俗学の大学講師がこう言ったことがある。
「柳田の文章は科学ではない、文学だ、と批判する人がいる。そう批判するのは簡単だ。柳田の記述には科学的な根拠…が、確かに薄いことがある。しかし、厄介なのは、それにもかかわらず、後の世に的を得ている記述が多い。しかも、厄介なのは、それにもかかわらず、柳田の論じた世界があまりにも広いということだ。それとどう向き合うのか、それは我々研究者の課題なのだよ」
当時は言えなかったが、今ならば素人ながらもこう反論するだろう。
「それが分かっているのならば、することはひとつでしょう。柳田仮説を全て整理してデータ化し、それをもとにひとつひとつ検証してゆくことなのではないですか。そうしてはじめて「柳田学」は科学になるのだはないですか?私は寡聞にしてまだそんなデータベースを聞いたことがないのですが」
柳田国男が死んで53年、未だにそんなモノは聞いていない。それどころか、この文庫本には、2人も解説を書いていて「海南小記」の課題を引き継いだのはひとり折口信夫と、文字通り文学者の司馬遼太郎だと堂々と書いているのである。その間「民俗学者」はいったい何をしたのか?
ただ、改めて本書を読むと柳田の文章は哀切を帯び、または小さき弱き者への共感がいっぱいで、恐ろしいほど素晴らしい「紀行文学」になっている。大分県豊後の遭難船の顛末、沖縄本島のユタの役割、八重山の亀の見送り、アメリカ帰りの貧しい身なりの美しい与那国の女のこと等々。ひとつひとつは、膨らませばそれだけで素晴らしいノンフィクション文学或いは小説になるだろう。情報過多の今ならば、この本が出版されたならば直ぐにテレビ局が向かって幾つも番組を作ったかもしれない。しかしそれら民俗事象は既に100年も前の海の彼方に沈んでいる。
私はここから印象に残った文章を二ヶ所書き写しておきたい。
久志村の青年らは、ユタをば、もはや正しい職務とは認めていない。もし彼女が新しい予言と啓示をすれば、すなわちこれを信ずまいとするゆえに、古くからの夢語りのみが、いよいよ歴史として固定していくらしいのである。こうして人間の想像を固定していくことが、幸福なものかどうかにはやや疑いがある。これから後の百世に対する我々の好意と期待、また自分ですらも忘れていく数々の愁いと悩みは、実は民族の感情に最も鋭敏なやさしい女たちの力によらざれば、とても文字などでは伝えておかれないのである。(64p)
こう書き得たことで、柳田は「伝説」というものが持つ核心の入り口を示しただろう。その最初期の記述に「幸福」という概念が入ってあるのは、実は我々が既に「忘れている」最も大切な核心なのかもしれない。
富士屋旅館の女主が、八重山から引き上げてきてこんな話をした。うそだと思いなはるなら、思いなはっても仕方ありませんが、私が船に乗りますと、大きな亀が三つで、送ってきてくれましたよ。(略)何でうそだと思うものかおかみさん。おかみさんは寒国の生まれだから知るまいが、日本の大海にもそんな亀が昔はいたのだ。浦島でも山陰の中納言でも、気を長くしていたために、ずっと立派な答礼を受けている。おかみさんが女のくせに鉄砲をかついで、島で鳥打ちなどをして歩きながら、亀だけは性のあるものと思って助けたくなったのも、また内地の町の年寄りたちが、小さな石亀でも放そうかと思うのも、誰も知らない不思議の遺伝があるからで、それがまた暖かな南の海でなければ、最初から経験することのできなかったことなのだ。我々がとうの昔に忘れてしまったことを、八重山の人たちは今ちょうど忘れようとしているのだ。(122p)
2013年のことを映画化した中国映画「最愛の子」では、小攫いに遭った親たちのグループが海に亀を放していた。生類放海の儀式は、案外根強く残っているのかもしれない。
2016年4月読了続きを読む投稿日:2016.04.26
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