落日
湊かなえ(著者)
/ハルキ文庫
作品情報
わたしがまだ時折、自殺願望に取り付かれていた頃、サラちゃんは殺された──新人脚本家の甲斐千尋は、新進気鋭の映画監督長谷部香から、新作の相談を受けた。十五年前、引きこもりの男性が高校生の妹を自宅で刺殺後、放火して両親も死に至らしめた『笹塚町一家殺害事件』。笹塚町は千尋の生まれ故郷でもあった。香はこの事件を何故撮りたいのか。千尋はどう向き合うのか。そこには隠された驚愕の「真実」があった……令和最高の衝撃&感動の長篇ミステリー。
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商品情報
- シリーズ
- 落日
- 著者
- 湊かなえ
- ジャンル
- 小説 - ミステリー・サスペンス・ハードボイルド
- 出版社
- 角川春樹事務所
- 掲載誌・レーベル
- ハルキ文庫
- 書籍発売日
- 2022.08.18
- Reader Store発売日
- 2022.11.15
- ファイルサイズ
- 1.1MB
- ページ数
- 431ページ
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この作品のレビュー
平均 3.7 (245件のレビュー)
-
『思い出すのは、あの子の白い手。忘れられないのは、その指先の温度、感触、交わした心 ー』
幼い頃の記憶に何を思い浮かべるかは人それぞれです。個人差はあるものの記憶というものはおおよそ三歳から四歳く…らいから人の中に残り続けるのだそうです。私、さてさてと言えば、何歳と断定できないのですが、雪が降り積もった道を祖母におんぶしてもらった、そんな記憶が残っています。真っ白な雪景色の中に包まれる寒々とした光景。しかし、私の中に残るのは祖母のあたたかい背中です。そんな祖母も亡くなってかなりの時間が経ちました。しかし、私の中には記憶としていつまでも残り続けている祖母の背中。人によって幼き日の記憶は異なるとは言え、やはりそれは人と人との繋がりの中にあるものではないか、そんな風に思います。
さて、ここに、『出ていって』という言葉の先に『ベランダに閉め出された』幼き日の記憶を語る主人公が登場する物語があります。『雪がちらついて』という寒空の下の『ベランダ』で、『隣の部屋との仕切り板』の向こうに『自分と同じくらいの大きさの手』の存在を感じた主人公の思いを見るこの作品。閉め出される度に、そんな存在と『モールス信号』を交わす主人公が描かれるこの作品。そしてそれは、そんな経験のその先に、『思い出すのは、あの子の白い手…』と幼き日の記憶を大切に思う大人になった主人公がそんな記憶に隠されたまさかの真実を見る物語です。
『あれが虐待だったとは、今でも思っていない。あれはしつけだった』と幼稚園時代のことを振り返るのは主人公の長谷部香。『夕飯後に「勉強の時間」というものがあった』という香は、『年長組に上がる前には小学二年生用のドリルを終えてい』ました。そんなある日、『一〇問中、初めて、三問以上にバツがついてしまった』香の前で『母は赤ペンをテーブルに叩きつけるように置』くと、『出ていって』と『ポツリと言』います。それが『ベランダに閉め出された最初』だったという香は、『とにかく母にきらわれたくな』いという思いの中に、それに従いました。しかし、『初日に抵抗しなかったため、それ以降、正解率が七割未満になると、ベランダに出されるのが習慣』となっていきます。そんなある夜、布団の中で『今からそんなに勉強させなくても…』と言う父親に、『文句があるなら、こんな暮らしから解放してくれたあとにしてほしいわ』と返す母親のやりとりを聞く香。そして季節が進んでいく中に、『あの日が訪れ』ます。『雪がちらついていた』という日に『またベランダに出される』ことになった香は、あまりの寒さに『風を避けられる場所を探』すと、隣家との境目に『稼働中の室外機から温風がもれて』いるのに気づき『体育座りをし』ます。そんな時、『ベランダの底面と板の隙間』から『手が覗いてい』ました。『板を挟んで誰かいる』と思う香は『指先でトントントン』とする中に触れ合いを持ちます。そして別の日、また別の日と、『モールス信号のような』繋がりを持つ香。そして、ある日スーパーで『お隣のタテイシさんよ』とサラちゃんと対面した香は、『ベランダに出なくても、サラちゃんに会える』ことを喜びます。しかし、『父の遺体が海で見つか』るという急展開の中に『母の実家である祖母の家に引っ越す』ことになった香は、『また会いたいね』と手紙を『サラちゃんの家のポストに入れ』ました。場面は変わり、『神池のおじいさんの十七回忌に帰ってこい』という父親からのメールを受け取ったのはもう一人の主人公・甲斐真尋。有名な脚本家・大畠凛子の下で脚本家の助手をしている真尋でしたが、大畠の勢いがなくなる中に先行きが見えない日々を送っていました。そんなある日、『見憶えのないアドレスから、メールが一通届いてい』るのに気づきます。『わたしは映画監督をしているのですが、新作の脚本について相談させていただけないかと思い…』というメールは初監督作品で『世界的に有名になった映画監督』である長谷川香からのものでした。『まったくの無名の脚本家に』、『何の接点もないのに…』と訝しがる真尋でしたが、『ぜひお会いしたい、とメールを送』ります。そして、香と真尋の二人の過去に繋がる接点に、まさかの真実が明らかになる衝撃的な物語が描かれていきます。
“新人脚本家の甲斐千尋(本名: 真尋)は、新進気鋭の映画監督長谷部香から、新作の相談を受けた。十五年前、引きこもりの男性が高校生の妹を自宅で刺殺後、放火して両親も死に至らしめた『笹塚町一家殺害事件』”と、内容紹介に挙げられたこの『事件』が湊かなえさんらしい物語を作り出していくこの作品。第162回直木賞の候補作にも選ばれた近年の代表作の一つだと思います。
そんな物語には、「落日」という書名を意識してか、海へと沈もうとする太陽の写真がとても印象的に表紙を彩っていきます。それは、作品中でも同様で、「落日」を描く見事な表現が作品内に登場します。せっかくなので、まずはそんな表現を追ってみたいと思います。
・『あと二時間くらいで、海に太陽が沈むんだ。ジュワって音が聞こえてきそうなほど大きくて真っ赤な太陽が』。
→ 亡くなった父に『一度だけ』『町のシネコンで映画を見た帰りに、海に連れていってもらったことがある』という香が、海を見つめて彼女に語りかける父親を思い出す場面に登場する「落日」です。なんとも雄大な情景が浮かんできます。
・『高台にあるおばあちゃんの家からは、これから沈もうとしている夕日をまっすぐ眺めることができた。太陽ってこんなに赤くて、丸くて、大きかったっけ?と目を奪われてしまうような夕日を』。
→ 真尋の従兄弟の『元カノ』・橘イツカが、友人に呼び出されて赴いた『おばあちゃんの家から』見る「落日」です。高校生だったイツカの新鮮な感覚が上手く表された表現だと思いますが、物語では、このあとイツカに衝撃的な運命が待ち受けています。
・『海の上にかかっていた雲が少しずつ上がっていき、雲と海のあいだに隙間ができる。ちょうど太陽がはまるくらい』という中に、『線香花火の赤く丸い玉が、早々に地面に落下したのをなげいていると、そこから最後の火花が上がり、ゆっくりと消えていく。そんな日の落ち方だった』。
→ これも見事な表現です。真尋が先生である大畠凛子と見る「落日」の場面です。まさしく絵に描いたような「落日」の場面。ここからは「落日」という表現にどこか付き纏うマイナスイメージが払拭されていくように思います。これから、読まれる方には是非、書名の「落日」の視覚的イメージも意識いただければと思います。
“新作に取り掛かる際、よく編集者から投げてもらった一言から話を考えていく” と執筆の起点を説明される湊かなえさん。そんな湊さんはこの作品の起点をこんな風に説明されます。
“今回、版元の社長から’裁判’、担当編集者から’映画’という言葉をいただき、なら裁判シーンのある映画を作る話にしようと思いました”
二つのキーワードから単行本380ページという物語を編み出す湊さんの恐るべき筆の力にも驚きますが、そこに深く斬り込まれていくテーマもなかなかに絶妙だと思います。では、そんなキーワードを順に見ていきましょう。まずは、『裁判』です。この作品では、ダブルキャストとなる香と真尋の双方に縁のある『山と海に挟まれた細長く小さな町、笹塚町』が一つの舞台となって展開していきます。そんな町で十五年前に起こった『笹塚町一家殺害事件』。そんな事件の真相を求めて主人公の真尋が、ある時は香と、またある時は大畠凛子と事件の現場を訪れ、さまざまな人物に話を訊いていきます。そんな中でこの作品では、『法学部の学生であったにもかかわらず、裁判所を見学するのは初めて』という真尋が、香と東京地方裁判所へ『傍聴』に訪れる様子が描かれていきます。このレビューを読んでくださっているみなさんの『裁判』への距離感はマチマチだと思います。私、さてさては『傍聴』の経験がありませんので、『裁判』というとテレビドラマに描かれる場面しか思い浮かびません。そんな私のような者にとても気になる表現が登場します。それが、『なんか、ゆるゆるですね』という真尋の言葉の先に描かれていく『裁判』のリアルです。
『裁判って、どれも、あんなに軽いものなんですかね』
そんな風にも語られる『裁判』の場面は、『サスペンスドラマの法廷シーンと実際の法廷はまるで違う』という言葉通りドラマのあの劇的な場面からは程遠い世界として描写されていきます。作品では、『裁判所を見学するのは初めて』という真尋視点で、『違うなら、どうして現実に寄せないんだろうって疑問に思っ』ていたのが、『傍聴』によって『そのままやると退屈だからですよね』と納得感を得る先に、だからこそ『裁判』とはどうあるべきものかと香と意見を交わしていく姿が描かれていきます。
また、刑事裁判でよく登場する『精神鑑定』にも光を当てていきます。『弁護側は「心神喪失状態にあった」と主張したが、検察側は「完全な責任能力があった」と主張』するというような展開は、現実の『裁判』でもよく聞く話です。しかし、その実際がどういうものかの詳細についてつい詳しい方も少ないのではないかと思います。この作品では、『精神鑑定』という名前は聞くもののイメージでしか知らないという方にも分かりやすくその裏にあるものが描かれていきます。『裁判』というキーワードからとても興味深い視点を見せていただきました。
そして、もう一つが『映画』です。この作品は〈第一章〉から〈第六章〉で構成されていますが、一方で〈エピソード1〉から〈エピソード7〉という言葉が目次には記されています。〈第一章〉に〈エピソード1〉が起こるのか?と一瞬思いますがそうではなく、〈エピソード1〉、〈第一章〉、〈エピソード2〉、〈第二章〉…という順序で物語は進みます。これは実は、〈エピソードX〉が香視点の物語、〈第X章〉が真尋視点の物語となって構成されています。つまり、実際には香と真尋という二人の主人公に交互に視点が切り替わる十三章から構成された物語というのが実際の内容です。そして、そんな二人の主人公は、香が映画監督、真尋が脚本家という位置づけです。とはいえ二人には大きな落差があり、香が初監督作品がが海外で賞をとったことで『世界的に有名になった映画監督』である一方、真尋は大畠凛子の元で『アシスタントであり、事務員でもある』という光の当たらない身です。物語では、そんな二人が香が真尋宛に出した一通のメールによって繋がっていきます。それこそが、香が自らかつて一時期暮らした町で発生した『笹塚町一家殺害事件』を題材にオリジナル映画を撮るという思いを固めたことから始まります。そんな香視点となる〈エピソードX〉は監督になる以前の香の人生が描かれています。
『あれが虐待だったとは、今でも思っていない。あれはしつけだった』という幼稚園時代の記憶
香は、そんな記憶の中で、ベランダで心を交わし合った隣室のベランダの主のことがいつまでも記憶に刻まれ続けています。
『わたしだって、あの子がいなければ心が折れていたかもしれない。そう考えると、彼女は命の恩人のように思えた』。
物語は、そんな『あの子』が重要な位置づけにあります。そして、主に現在の姿が描写されていくのが〈第X章〉で描写される真尋の物語です。脚本家としての将来が全く見通せない中にもがき苦しむ真尋に一つの転機が訪れます。それこそが映画監督の香からのメールですが、真尋の脚本が『採用してもらえるか、決まったわけじゃない』という中に『笹塚町一家殺害事件』に深く足を踏み入れていきます。そこには次から次へと新たな事実が浮かび上がり、まさかの関係性の中に人と人が繋がっていきます。そんな中に真尋の心の内が細やかに描かれていきます。
・『この町は、監督がただ通過しただけの場所ではなさそうだ』。
・『マスコミが報じなかった彼女のエピソードを知ることはできたけど、どういうわけか、それは長谷部監督が求めているものではないような気がした』。
そして、
・『まるでつかめない。形が見えない。事件の概要、ではなく、監督が何を撮りたいのか。監督を信頼できるのか。監督が知りたいことを、果たして自分は見たいのか』。
といったように香がどうして『笹塚町一家殺害事件』に深い関心を持つのか、そんな香の思いに向き合っていく真尋。そんな真尋が、『企画が通る通らないは関係ありません。ただ、わたしは「笹塚町一家殺害事件」を元にした映画の脚本を書きます』という強い思いの先に進んでいく物語は、真尋自身の中に眠る事ごとに決着をつけていく過程を描くものでもあります。「落日」という書名から”イヤミス”な結末を想像させる物語は、そうではなく、「落日」したからこそ訪れるであろう次に続く新しい未来、輝ける未来を予感させる中に終わりを告げました。
『思い出すのは、あの子の白い手。忘れられないのは、その指先の温度、感触、交わした心 ー』
『裁判』と『映画』をキーワードに書き上げたというこの作品。そこには、”再生に繫がる一日の終わりもあるんじゃないかと思ってこのタイトルにしました”とおっしゃる湊さんの思いを感じるあたたかい読後感の物語が描かれていました。湊さんらしく真摯な物語の紡ぎ方に上質な読書を楽しめるこの作品。視覚的な「落日」の描き方に映像を強く意識させるこの作品。
湊さんらしく細やかに張り巡らされた伏線が、結末に向かって鮮やかに回収されていく物語作りの上手さの中に、さまざまな思いが去来した作品でした。続きを読む投稿日:2023.07.15
この作家の作品を読んだのは初めてで、最後の解説を読みながら「イヤミス」の作家だと言われてると知る。意味は読んだ後に嫌な気持ちになるとの事らしい。なるほど、読み終わった次の日、1日モヤっとした気分を引き…ずって過ごしたのも頷ける。でも読みながら、ここまで感情を揺さぶられる作品にはなかなか出会ったことがない。読書を世界に引き込む力を持っている作家なんだろう。ストーリー編成も2人の主人公を行き来したり、過去の話と今を行き来したりと面白い。全体を通してすごい作品だと思った。この作家さんの他の作品もぜひ読んでみたい。続きを読む
投稿日:2024.04.15
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