源氏物語 上
角田光代(訳)
/河出書房新社
この作品のレビュー
平均 4.2 (30件のレビュー)
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あなたは「源氏物語」を知っているでしょうか?そして、そんな物語を読んだことはあるでしょうか?
世界最古の小説とも言われ、世界の20数か国語に翻訳されてもいる小説、それが「源氏物語」です。とはい…え、”源氏物語=小説”という図式にはどこか違和感を感じないではありません。そこにはどうしても、古典・古文の授業風景が重なり見えてくるからです。私も「源氏物語」はもちろん知っています。しかし、その知識は作者が紫式部で、平安時代に書かれたもので、光源氏という人物が登場するらしい、ほぼその程度にとどまります。読書&レビューの日々を送っているとはいえ、私には読書の対象として「源氏物語」を捉えたことはこれまで一度もありませんでした。それが、2021年秋にブクログのプロフィールを修正して、”国内のすべての女性作家さんの小説を読み終えてブクログ卒業宣言をする”、と書いてしまったことで雲行きが怪しくなります。女性作家さんということは、清少納言、菅原高標女、そして紫式部が書いた作品も読むのか?と自問する日々がそこに生まれたからです。そんな中で、「源氏物語」ってそもそもどんな物語なのだろう、と調べ始めた結果、そこには予想外に興味深い世界が広がっていることに気付きました。しかし、一方で古典・古文の復習のようなことは絶対にしたくない、そんな思いも去来しましたが、調べてみると「源氏物語」にはきちんと現代語訳というものが存在し、多数の翻訳本が出版されていることを知りました。
そんな中、角田光代さんが訳された翻訳本が存在することを知った私。角田さんというと、私が既に21冊を読了している大好きな作家さんでもあります。そんな翻訳本の中には角田さんのこんな言葉が記されていました。『長編小説として「源氏物語」を読もうとすると、なんとなく受験勉強臭がしてくる。でもきっと、長編小説というとらえかたでなければ浮かび上がってこないものがある』というその語り。『物語世界を駆け抜けるみたいに読んだほうが、つかまえやすいものもきっとある』、そのために『読みやすさをまず優先した』と続ける角田さん。そんな言葉を読んで私の心はついに固まりました。
「源氏物語」を読もう!
この作品は角田さんが五年以上もの歳月をかけて取り組まれた平安絵巻の物語。『光をまとって生まれた皇子』が平安の世を駆けていくのを見る物語。そしてそれは、一千年という時を経て紫式部が今を生きる私たちに、人の世を生きるということの意味を問いかける物語です。
では、そんな天下の「源氏物語」の最初の第一帖(≒第一巻≒第一編)〈桐壺〉をいつもの さてさて流でご紹介しましょう。き、緊張するなあ…。
『いつの帝(みかど)の御時だったでしょうか』という、その昔に『帝に深く愛されている女がい』ました。『帝の深い寵愛を受けたこの女は、高い家柄の出身ではなく』、『女御より劣る更衣』にも関わらず『桐壺(きりつぼ)』という部屋を与えられています。このことを『帝に仕える女御たちは』、『帝の愛を独り占めしている』として、桐壺のことを『目ざわりな者と妬み、蔑』みます。そうして『ほかの女たちの恨みと憎しみを一身に受け』た『桐壺は病気がちとなり、実家に下がって臥せることも多くな』ります。『そんな桐壺をあわれに思』った帝は『周囲の非難』を『意に介さず』『ますます執心し』ました。そんな中『帝と桐壺のあいだにかわいらしい皇子(みこ)が誕生し』ます。『この世のものとは思えないほどのうつくしさ』というその皇子。『帝は別格の配慮を持って、母なる「御息所(みやすどころ)」としてそれに似つかわしい待遇を』桐壺に施しますが、『最初の子を産んだ弘徽殿女御(こきでんのにょうご)は』『この若宮が東宮(皇太子)とされてしまうのではないかと』『不安を覚え』ます。『病弱で、後ろ盾もな』く、『帝に愛されれば愛されるだけ』『気苦労が増えていく』桐壺。帝のいる『清涼殿に向かう』と『通り道に汚物が撒き散らされる』など嫌がらせも絶えない桐壺。そんな桐壺を『不憫に思った帝は、清涼殿に近い』『後涼殿』を与えますがこれが『晴らしようもない恨み』を他の更衣に与えてしまいます。時は流れ、三歳になり『袴着の儀を行う』若宮。そんな若宮は『顔立ちも性質も、抜きん出てすばらし』く、『だれも憎めないの』みならず『ただ呆然と目をみはるばかり』の存在になっていました。一方で『ふたたび病にかかってしま』い、『急激に衰弱し』た桐壺は『若宮を宮中に置い』て『実家に』下がることになります。『意識も朦朧』、『今にも息絶えそうな』桐壺に『途方に暮れる』帝。桐壺が実家へと下がった後、『眠ることもでき』ない帝は使者を遣わせますが桐壺は『すでに息絶えてい』ました。使者から『それを聞いて』取り乱した帝は『部屋に閉じこもってしま』います。そんな中、『何が起きたのかまるでわから』ない様子の若宮を見て『人々の悲しみは掻き立て』られました。『悲しみに暮れ、今では朝の政務を怠ることもある』ようになった帝は『清涼殿での正式な昼食』に『見向きもしな』くなり『仕える者は、男も女もみな、「本当に困ったことです」とため息』をもらします。そして『月日は流れ、いよいよ若宮が参内することにな』りました。『成長したその姿は、今までにも増して気高く、いよいよこの世のものとは思えないうつくしさ』を感じさせる若宮。しかし、『後ろ盾』のいない若宮の将来を危惧する帝は立太子を隠します。そんな帝は『高麗人が来日した折に、よく当たる人相見』に若宮のことをひそかに占わせます。そして『皇族を離れさせて臣下とし、朝廷の補佐役に任ずるのが若宮の将来にはいちばん安心』という結論を得た帝は、『若宮を臣下に降し、源氏という姓を与えることに決め』ました。一方で『桐壺を忘れることはできな』い帝は『顔立ちも姿も、不思議なくらい亡き桐壺にうりふたつ』という『先帝の第四皇女である藤壺』に情を移し、源氏も『たったひとりのすばらしい人』と藤壺を慕うようになっていきます。そんな源氏は『輝くようなうつくしさはたとえようもなく、いかにも愛らしい』という姿に育ち、『やがて人々は』そんな源氏のことを『光君(ひかるきみ)』と呼ぶようになりました。そして、『元服の儀』を終え成人となった源氏。『光源氏』とも称されることになる光君の華やかな平安絵巻の物語が描かれていきます。
さて、角田さんが訳された「源氏物語」の第一帖〈桐壺〉をかなり大胆に切り取ってみましたがいかがでしょうか?書いている本人が言うのもなんですが、主人公・光源氏という人物の誕生の経緯がなるほど、と現代の私たちの感覚でも理解できるような気がしてきます。もちろん、色んな登場人物を削って削ってなので「源氏物語」を愛されていらっしゃる方には単なる冒涜にすぎないとお怒りになられている、もしくは呆れ果てている方もいらっしゃるかとは思います。しかし、私のような読書歴二年の人間にはこの大作はこんな感覚で理解していかないと、そのあまりの頂の高さに目が眩むのも現実です。その一方で、「源氏物語」なんて読まない、もしくは読めないとおっしゃる方には、なんだそんな感じの物語なのか、と思っていただければ私としてはとても本望です。そう、このレビューの目的はいつもの さてさての考え方と同じです。一人でも多くの方に、この作品を”読みたい”に登録していただくこと、そう願ってこの大作に挑んでいく次第です。そのため、レビューの書き方もいつもの さてさて流で書いていきたいと思います。
ということで、そんな上巻は、第一帖〈桐壺〉から第二十一帖〈少女〉までの二十一の帖から構成された連作短編の形式をとっています。そんな二十一の短編(帖)を三つの視点から見ていきたいと思います。まず一つ目は視点です。小説を読む時に読者が意識するのは、誰の視点で書かれたものかという点です。最初から最後まで一人の主人公の視点に固執するもの、短編ごとに視点の主が変わっていくものなど、その視点の位置によって読者が物語から受ける印象も異なります。そしてこの「源氏物語」では、そんな視点の主は主人公である光源氏でも、他の登場人物でもない第三者の視点で展開します。第二帖〈箒木〉の冒頭でそんな物語の視点を見てみたいと思います。『光源氏、というその名前だけは華々しいけれど、その名にも似ず、輝かしい行いばかりではなかったそうです』という文体からこの物語が光源氏視点でないことがまずわかります。それに続くのが『これからお話しするような色恋沙汰まで後々の世まで伝わり…本人が秘密にしていた話も、こうして語り伝えた人の、なんと性質の悪いこと…』という一文は、いや、伝えているのはこの物語を書いているあなたでしょう、とツッコミを入れたくなります。また、第三帖〈空蝉〉の中の一場面。光源氏が泊まった寝室の引き戸を開けて夕顔と共に庭を眺めるというシーンが『光君の住む広大な邸ではこんなに近くで聞いたことのないこおろぎが、まるで耳のすぐそばでやかましく鳴いているのが光君には珍しくて味わい深い』という風に描かれます。そしてその後こんな一文が差し込まれます。『女への愛の深さゆえ、なんでもかんでも味わい深くなってしまうのでしょうね』。えっ?あんた誰?といきなり登場する視点の人物にツッコミを入れたくもなります。そう、ここに顔を出す視点の人物が作者=紫式部です。私は女性作家さんの作品ばかり500冊近くを読んできましたがこんな第三者=作者の視点、かつ作者のコメント入り!という文体の作品に接したことはなく、とても興味深いものをそこに感じました。
二つ目は本文の途中に山のように登場する和歌です。五七五七七の31文字を基本単位として歌われる短歌がこの上巻の二十一の帖には、なんと337首も登場します。読書に縁のなかった私は和歌となるともう完全に古典・古文の授業を思い出してしまって今まで一才の興味を持ってきませんでしたが、この作品を読んでなるほど、と頷かされるものがありました。それは元々短歌というものが、一定の決められた文字数の中でその場面の情景と、登場人物の心象を凝縮して存在するものという点に関連します。単発で短歌および訳を読んでも、その場面がイメージできないと今ひとつピンとこない思います。しかし、この作品では、そもそも本文で物語が展開する中に、その時の登場人物の心の内を相手に伝えるために短歌が詠まれます。こうなるとその短歌を無視しての読書は成り立ちません。また、本文中で触れられない登場人物の心象が短歌を通じて浮かび上がってくる効果も見事に発揮され、特に男女の語らいの場面ではその威力に圧倒されます。例えば第十三帖〈明石〉で入道の娘が住んでいる岡辺の家へと光源氏が赴いたシーン。なかなか気を許そうとしない入道の娘に対して光源氏はこんな歌を詠みます。
『むつごとを語りあはせむ人もがな憂き世の夢もなかば覚むやと(睦言を語り合える相手がほしいのです。このつらい世の悲しい夢も、半分は覚めるかと思いまして)』
それに対して入道の娘は、
『明けぬ夜にやがてまどへる心にはいづれを夢とわきて語らむ(明けることのない夜の闇の中をさまよう私には、どちらを夢と分けてお話しできましょう)』
こんな風に返します。気が動転する娘に対して無理強いをするでもなく大人に接していく光源氏という二人は結局『契りを交わし』ます。音楽をつければミュージカルのワンシーンにもなりそうなこのシーンに象徴されるように、この作品における和歌はその存在をもって男と女の心と心が呼応し合う様を演出し、物語をより奥深いものにしていきます。そしてまた、本文だけだとベタッとした印象を与えるところに上手くリズム感を作って、一本調子の物語でない変化のある読み味をつけて長文の物語をより魅力あるものにしているようにも思いました。
そして、三つ目は”訳”です。ここまで『』で引用してきている本文は和歌の原文を除き全て角田光代さんの訳からの引用になります。私はこの作品の原文を読んだことはありません。もしかすると、中学・高校の古典・古文の授業で接したことはあったのかもしれませんが、古典・古文大嫌いだった身には一切の記憶はありません。そんな私にとって「源氏物語」を読むということは、どなたかが現代語に訳されたものを読むということと必然的にイコールになります。”女性作家さんの小説を読む”とプロフィールに謳っている私としてはその訳者も女性に絞られ、実のところ昨秋頃から誰の訳で読むかを随分と思い悩んできました。そんな私が角田さんの訳に決めたのは、小説を20冊以上読んできたことでの親和性と、〈あとがき〉でも触れられている『読みやすさをまず優先した』というその姿勢でした。せっかくですので、訳によって物語がどんな風に違って見えるのかを第一帖〈桐壺〉の中から『桐壺更衣が帝の愛を独り占めしている』と『ほかの女たちの恨みと憎しみを一身に受ける』ことになった状況について触れたシーンの一文で比較したいと思います。
・原文: いとまばゆき、人の御おぼえなり。唐土にも、かかる事ことの起りにこそ、世も乱れあしかりけれ
→ 与謝野晶子訳: 唐の国でもこの種類の寵姫、楊家の女の出現によって乱が醸されたなどと陰ではいわれる
→ 瀬戸内寂聴訳: 唐土でも、こういう後宮のことから天下が乱れ、禍々しい事件が起こったものだ
→ 中井和子訳: ほんまに、みてられへんようなご寵愛ぶりやなあ、きっとこないなことがもとで乱が起こり、困ったことになったんやがなぁ
→ 角田光代訳: 唐土でもこんなことから世の中が乱れ、たいへんな事態になったと言い合っている
四人の女性作家さんの訳の相当箇所を並べてみましたがいかがでしょうか。与謝野さんの『寵姫、楊家の女の出現』は、原文でその後に続く『楊貴妃の例も引き出で』を一文にまとめているのでそれを差し引いていただく必要がありますが、訳者によって同じ内容にも関わらず受ける印象が随分と異なってくるのがよくわかります。特に冒頭の『いとまばゆき』をどう訳すかは古典・古文の試験にも出てきそうですが、『たいへんな事態』という角田さんの訳が私には一番しっくりきます。一方で”京ことば”に訳された中井和子さんの訳もこれはこれで面白そうです。いずれにしても訳に正解はないので、これから読まれる方はまずは誰の訳で読むか?に、それなりに時間をとられるのが、読み始めて後悔しない読書の第一歩かと思います。また、同じ文章がこれだけ変化すると考えると”読み比べ”という考え方も面白そうです。クラシック音楽は、同じベートーヴェンの交響曲第九番でも誰の演奏で聴くかで全く異なる顔を見せます。それは指揮者の楽譜の解釈に左右されるわけですが、古文の訳は指揮者が訳者となり、同じような楽しみがそこには待っているとも言えます。読書にもなんとも奥深い世界がまだまだありそう、この作品と出会ってそんな風にも感じました。
そんなこの「源氏物語」の上巻は『輝くようなうつくしさはたとえようもなく』と言われる光源氏の誕生から三十五歳までの生き様を描いていきます。歴史上の実在人物である藤原道長をモデルにしたとも言われるその人物像は、読めば読むほどに強烈です。一つ例を挙げましょう。第八帖〈花宴〉の中で『桜の宴』が催され『夜がすっかり更けて、行事は終わった』という後のシーン。『あたりはひっそりと静まり』という中、『そのまま帰る気にはどうしてもなれな』い光源氏は、『清涼殿の宿直人ももう寝ているだろう』、『もしかしてちょっとした隙があるのではないか』と考えます。『女房の部屋が並んでいる細殿に立ち寄』り、『戸口が開いている』のを見つけた光源氏は『朧月夜に似るものぞなき』と口ずさみながらやってきた女の袖をいきなり掴みます。『あら、嫌だ、どなた』と怯える女に、『こわがることはありませんよ』と言いながら『抱き下ろし、扉を閉めてし』めてしまう光源氏。『がたがたと震え、「ここに人が」と声を上げ』る女に『私は何をしてもだれにも咎められませんから、人を呼んでもなんにもなりません』と言いのける光源氏。「源氏物語」とはどのような作品なのかと思って読み進める読者の前に迫るのは、現代の世であれば逮捕間違いなしの好き放題、やりたい放題な生き方をする光源氏の姿でした。”恋愛物語”の原点がここにあるともいえるのかもしれませんが、どんなに時代が変わっても男と女は好き合う生き物であって、そこにはどんな男女の組み合わせでもドラマが何かしら生まれ、同じ形のものは一つとしてない、ということを改めて感じました。しかし、この上巻では、光源氏のやりたい放題な人生がただただ列挙されているわけではありません。そこには、
①『光をまとっ』た皇子の誕生、桐壺帝の庇護下でやりたい放題の光源氏
②桐壺帝の崩御と、敵勢力ゆかりの朱雀帝の登場で、反対勢力により追い落とされる光源氏
③朱雀帝から攘夷を受けた冷泉帝の元で復権し、上りつめていく光源氏
という大きな潮流の中でそれぞれの時代を一つの確立されたキャラクター・光源氏として駆け抜けていく、そんな一人の男の物語が描かれていました。そんな魅惑的な男に振り回される数多の女たち。そんな女たちの個性もさまざまです。『落ち着いた分別のある女君として、格別に信頼している』妻であるにも関わらず、どこか煙たがって遠ざける葵の上、『自分の理想通りに教育してみようと』幼い頃から身近において育て、大きくなってくると『そろそろ男女の契りを結んでも問題はないのではないか』という相手として見る紫の上、そして『ほかのことなど考えるゆとりもなく日が過ぎていく』と思いを募らす相手でもあり、そもそもは桐壺帝の妻で自分の母であるはずの藤壺、と描かれる女性の関係性も現代ドラマであってもドロドロの極みであり、それぞれが強い個性を放って読者を決して飽きさせません。平安絵巻の世にこのような強烈な個性の人物のモデルとなる人物が実在したのかどうかは分かりません。しかし、当時の人たちもここに描かれていく数多の登場人物たちの虜になったことは間違いありません。そう、私たちは一千年も前のこの国に暮らし、生きていた人たちと同じ物語を読んでハラハラドキドキ、一喜一憂しているのです。逆に言えば一千年も前の時代にその当時の人々が高く評価し、その後一千年もの長きに渡って読み継がれてきた、そんな物語をここに手にしているのです。そんな風に改めて考えると、なんとも感慨深い思いがよぎるとともに実際に読んでみて、なるほど、これは面白い、と古典・古文の授業から物語が飛び出して趣味の読書の世界に物語がやってきたのを実感しました。
『作者の意図をはるかに超えて、勝手に力を蓄え、時代とともにその力を失うばかりかどんどんひとりでに蓄え続けていく、化けもののような物語』。訳者の角田さんがそんな風に語るこの物語には、二十一の連作短編の中をまさしく駆けていく光源氏の生き様が描かれていました。豪華な装丁と圧倒的な物量になかなか手を取るのを躊躇もしたこの作品。結局、三日間合計約10時間強で読み終えた物語の上巻には、平安の世にこの同じ国を生きた人々の暮らしが、恋愛が、そして人生が描かれていました。そしてそこにあったのは、いつの世も変わらぬ男と女の物語、愛し、愛され、そして愛し合うという今の私たちと何も変わらない”恋愛物語”でもありました。一千年の時の流れは幾ら角田さんの名訳をもってしてもある種の割り切りが必要な部分もあります。しかし、世界の20数か国語にも翻訳され世界的にも知られるこの作品を読まないのは日本人としてももったいないことだとも思います。世界最古の長編小説の傑作を、長編小説の名手でもある角田さんが『読みやすさをまず優先』に訳したこの作品。多くの方に是非この作品を手にしていただきたい、そう感じた日本文学の傑作だと思いました。
では、中巻へと読み進めていきたいと思います!続きを読む投稿日:2022.02.26
おもしろかったけど、長い!!!
YouTube大学見ながら読むとわかりやすかった。そして、YouTube大学の方がおもしろかった、、、笑
ファスト教養でいい自分にショック。笑
かなりわかりやすくなっ…ているようだけど、それでも私には難しかった。
誰が誰に言ってるの?とか
古文わからん!とか。続きを読む投稿日:2024.03.29
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