めし(新潮文庫)
林芙美子(著)
/新潮文庫
作品情報
男が絶対の位置に坐っている世間の、そのような男からは離れた女、すなわち、ひたすら愛情だけに生きる女が、その愛情を失うことになったときの、まるで救いようのない虚無感、生活と心の拠りどころを失った女の哀しい運命を、永遠のテーマにした林芙美子の佳篇。昭和二十六年、朝日新聞に連載中、突然の作者の死により絶筆となったが、後に映画化されて、絶大な成功を収めている。
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主人公の夫婦がいた天神ノ森
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しっとりと雨を含んだ木立ちの緑と、濡れた石畳、母親に手を引かれた幼女が歴史の散歩道の赤レンガを踏んで歩いていく。視界の奥に、カラフルなチンチン電車が横切った。
阿倍野神社の西人口から、天神の森の住宅街を見下ろしながら、東京から移ってきた三千代と初之輔が住んだ家はどのあたりだろうか――と私は思いをめぐらせていた。
「はじめは、東京風な、貧しい長屋の感じに受け取っていたが、来て見ると如何にも大阪らしい長屋建築である。どの家にも、ヒバの垣根があり、脊のひくい、石門がある」 神社の階段を降りると、すぐそこが、阪堺線の天神の森駅。北からカーブしてくる線路上に、うっそうとした樹木が覆いかぶさるように繁っているのが天神の森だ。
天神の森は、紹鴎の森とも呼ばれる。これは、千利休の師・武野紹鴎が、天神の森・天満宮を勧請したことによる。
あたりは、閑静な昔からの住宅が立ち並んでいるが、夜は静寂があたりを支配し、夜空に浮かびあがる天神の森の影に、忘れていた淋しさがよぎる。
林芙美子の「めし」は、大阪を舞台に、結婚五年目の夫婦を描いている。ジヤンジヤ ン横丁、戎橋、千日前など、「めし」の看板があふれる親しい町で、主人公たちは、ぜんざいや、まむしを食べ、大虎 のかまぼこを買ったりする。
林芙美子の、食事の場面の描写にかけては右に出る者がいない。
そして、夫婦の住む天神の森の状景は、夫との愛に満たされない三千代の、女としてどうしようもない虚無感をいっそう盛り上げる役目を果たして効果的だ。
「夜の、天神ノ森は、田舎の神社のように、ひっそりしていた。楠の大木が、亭々と そびえて、こんもりと、葉を繁らせている。安産のお箸あげますと、木の札のかかって いる、社務所の窓の燈が、ぼおっと、境内を照している。三千代は、初之輔から、も っと優しい言葉を求めていた。
この日ごろの、すさびた流れのなかに、女とか、妻とかいったものを流出させていて、 溺れて、息も出来ないのだ」
子供のない三千代は、子供をもらおうかと思い悩んでいた。天神さんに安産のお箸と は似合わないが、三千代の悩みは、そのまま芙美子の悩みだったかも知れない。
「三千代は、太い縄を握ったまま、力なく、鈴を鳴らしてみた。切符売場の、小さい売店は店を閉ざしていた。最終の、浜寺駅前行きの電車が、通った。踏切の向うの、写真館の青い燈が、線路を、照している。線路道には、草が光っていた」
若く、自由奔放に生きる姪の里子を、駅へ迎えに行ったまま初之輔は戻って来ない。ある時は咀fをうらやみ、ある時は;sii*0-,に優しい初之輔を憎みながら、夜の境内で貧しい心を満たす回かを待ちつづけた三千代がへyもたたずんでいる気がする。
女の命燃やし続けて……
花のいのらはみじかくて、苦しきことのみ多かりき。
彼女は、まさにこのとおりの生涯を送った。女の命を燃やし続け、花の盛りに忽然と逝ってしまった。「めし」は彼女の絶筆であり、最高傑作のひとつだ。
天神の森から、恵美須町行きのチンチン電車に乗り、終点で降りると、天王寺公園内美術館横に、芙美子の碑が立っている。
「昔、通天閣のあったころは、この七十五メートルの高塔を中心に、北方に、放射状の道路があり、国技館や、映画館、寄席、噴泉浴場、カフェーや、酒場が軒を並べていたものだそうひあるぃ 芳太郎は、いつの間にか、里子の腕を取って、歩いていた」。碑には「めし」の節が彫られている。投稿日:2012.04.24
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