ヤマケイ文庫 山をたのしむ
梅棹 忠夫(著)
/山と溪谷社
作品情報
生態学者・文化人類学者であり、探検家である梅棹忠夫氏の登山と探検を振り返った著作。
晩年になって想いを新たにした随想、対談などをまとめたもので、氏の最後の著作になった。
また著作集をはじめ多数の著作のなかで、唯一の山と探検をテーマにした単行本である。利便性のみを追求しがちな現代にあって、山とは、探検とはなにかを問いかけた、貴重な一書である。
内容は、京都の青春時代の回想、学問とフィールドワークについて、今西錦司、中尾佐助、安江安宣、平井一正などとの山をめぐる交友録、探検をめぐる発言集など。
かつて登山、探検を志向したことのある人には待望の内容になっている。
なお、山と溪谷社も共催している「梅棹忠夫・山と探検文学賞」も今年4回目を迎え、異色の文学賞として定着しつつある。
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商品情報
- シリーズ
- ヤマケイ文庫 山をたのしむ
- 著者
- 梅棹 忠夫
- ジャンル
- スポーツ・アウトドア - 登山
- 出版社
- 山と溪谷社
- 書籍発売日
- 2015.06.01
- Reader Store発売日
- 2015.07.24
- ファイルサイズ
- 0.6MB
- ページ数
- 440ページ
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この作品のレビュー
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792
屋久島の章良かった
梅棹忠夫も自然科学の基本は自然を愛することって言ってる。まず愛しているから観察するし愛してないものなんて見向きもしないでしょ。愛することが先だと思う。
理系は自然を愛…する人々なんだよ。理系は頭が良いとか言ってるお前はバカ!
梅棹忠夫(うめさお・ただお)
1920年生まれ。京都大学理学部卒業。理学博士。京都大学教授、国立民族学博物館の初代館長を経て、1993年から同館顧問。専攻は民族学、比較文明学。世界各地の探検や調査をもとに、幅ひろく文明論を展開する。文化勲章受章。主著に『文明の生態史観』(中央公論社、1967年)、『狩猟と遊牧の世界』(講談社、1976年)『日本とは何か―近代日本文明の形成と発展』(日本放送出版協会、1986年)、『情報の文明学』(中央公論社、1988年)など、いずれも「梅棹忠夫著作集」(全22巻、別巻1)に収録されている。2010年没。
ヤマケイ文庫 山をたのしむ
by 梅棹 忠夫
山は一大総合研究所である」というのがわたしの少年のころからの一貫した主張で、まさにそれをめざす研究所が、はじめて国立大学にできることをおおいによろこんだ。
そこでわたしは、はじめて「国際山岳年」のことを知った。これは、国際連合の提唱で二〇〇二年を「国際山岳年」とさだめて、山の環境と文化を見なおそうというもので、世界各国に国内委員会がもうけられているという。日本でも国内委員会を組織するので、わたしにその特別顧問のひとりになってほしいと言われた。わたしは了承した。
おもいかえしてみると、わたしと山の縁はいまにも切れそうになるかとおもうと、またあたらしいできごとがくわわり、縁のむすびなおしのようなことになって今日までつづいている。山との縁が切れそうになったことがあっても、自分から切ろうとおもったことはいちどもない。その点は、実生活ではともかくも、気もちのうえでは、終生わたしは登山家であったとおもっている。来世というものがあるとするならば、わたしはそこでも、あらためて山へ行っているであろう。
けっきょく、わたしにとって山とはなんであったのか。わたしが高等学校の学生であったころ、すでに述べたように、わたしは山に夢中になっていた。わたしがいっこうに勉強しないのが心配になったのか、叔父が、将来どうするつもりかと問いただした。わたしはそのときも山のすばらしさをとうとうと述べて、叔父を煙にまいた。そして、自分のかんがえを「山岳至上主義」ということばで 締めくくった。叔父は、わたしがなにで身をたてるつもりか聞こうとしていたのだろうが、これでは話にならんとおもったのか、これ以上問いつめることをあきらめたようだった。わたしは、山の研究者として一生をおくっていけるだろうと漠然とかんがえていたのだ。しかし、研究者というようなものが職業として成りたつということは、一生を一商人として生きてきたこの叔父には、とうてい理解しがたいことであろう。わたしも、それ以上説明するのをやめた。
わたしは登山とともに、ながく世界各地で学術探検の仕事にたずさわってきた。その経歴も加算され、評価されたのかもしれない。イギリスでは、山岳会と王立地理学協会とのあいだには役割分担があるが、日本の場合は日本山岳会が両者の性格をかねそなえているとおもわれるからである。
山城の三十山をのぼっているあいだに、わたしは登山のもっとも基礎的なマナーと技術を身につけたようにおもう。動物や植物の知識もまなんだ。
当時、京大には山岳部はなかった。そのかわり旅行部というクラブがあって、これが先鋭なアルピニスト集団でヒマラヤをめざしていた。そのルームにはすばらしい山岳図書のコレクションがあった。神戸のイギリス人貿易商が帰国するにあたって処分したものを、京大が買いとったのである。わたしはそのルームにかよって、それらの本をよみあさった。グリブルの『ジ・アーリー・マウンテニアーズ』などを読破して、ヨーロッパ登山史についてもかなりの知識をえた(註1)。
三高山岳部のルームにも、イギリス山岳会の数次にわたるエベレスト遠征記録をはじめ、かなりの山岳書があった。そのなかで、わたしたちが教科書として愛読していたのは、ウィンスロップ・ヤングのあらわした『マンテン・クラフト』やバドミントン・ライブラリーというスポーツもののシリーズの一冊で、デントの『マウンテニアリング』という書物だった(註2)。このことからもうかがえるように、わたしたちの登山は、その思想においても技術においても、岩のぼりを主とする大陸派の登山よりも、イギリスのオールラウンドなアルピニズムの文化的系譜につながっていたのかもしれない。しかし、スキーは完全にアールベルク派である。
終戦後は国内に閉じこめられてしまった。それでもゆけるかぎりとおいところにゆこうというので、一九四九年に屋久島にいった。好日山荘の西岡一雄老と今西錦司先生との三人づれである。 安房 から宮之浦岳(一九三六メートル)に登頂し、島を一周した。これが戦後最初の山ゆきだった。 戦前の京都大学には山岳部はなく、実際の活動は旅行部とAACK(のちの京都大学学士山岳会)によっておこなわれていた。戦時中は旅行部は解散を命じられ、AACKも実質的な活動は停止していた。わたしはその戦前における最後の会員である。
ネパールからの許可はなかなかこなかった。一大学のクラブでは許可をだしにくいのだろうというので、この計画は日本山岳会に全面的に委譲することになった。このときにわたしは日本山岳会に入会したのである。
一九六一年にはひとりでネパールを旅行して山をみた。バドガオンの高地ではエベレストは雲にかくされてみえなかったが、カカニ・ヒルでは好天にめぐまれて、アンナプルナ、ダウラギリ、ヒマール・チュリ、マナスルのすばらしい眺望をたのしんだ。
一九六〇年代にはなんどもヨーロッパにゆき、アルプスをみた。イタリア側からモンテ・チェルビーノ、すなわちマッターホルン(四四七八メートル)に接近した。一九七〇年代にはピラトゥス山からアイガー(三九七〇メートル)、メンヒ(四一〇七メートル)、ユングフラウ(四一五八メートル)をみた。ヨーロッパ旅行は自分で車を運転して、おおきな峠をいくつもこえた。バルセロナからアンドラでピレネーの大峠をこえ、フランスにはいった。モンブラン・トンネルをぬけて、イタリアからシンプロン峠をこえ、スイスにはいった。峠のうえにはおおきな雪田があった。
一九八三年にはチベットを旅行した。ラサから五〇〇〇メートル以上の峠をこえて、シガツェまでいった。氷河の末端にちかかったが、わたしは高度の影響を感じなかった。
わたしはその除幕式に出席したいとおもった。わたしは今西さんと何重ものふかい縁でむすばれている。おなじ京都の西陣の出身で、京都府立一中、三高、京都大学の直系の先輩である。学問においては直接の師である。また登山と探検にあっては、つねに同志であった。そして京都大学の社会人類学の教授としては、わたしの前任者なのである。その今西さんの記念碑ができるというのに、除幕式にわたしが出席しないという法があるものか。
ひとの世はうつろいやすい。京都の市街にしても、ふたたび応仁・文明の乱のようなことで荒廃してしまうかもしれない。そうなれば、今西さんにまつわるいっさいの遺物は消滅するかもしれない。しかし、北山の奥のこのレリーフだけはのこるだろう。
芹生峠をこえると丹波の国ですが、そのあたりから京都北山にはいります。〝昆虫少年〟だったわたしは、夢中で北山じゅうをはしりまわりました。フィールド・ワークのはじまりです。ここがわたしの心のふるさとと言えますが、里山からはほどとおい深山幽谷です。
軍隊といえば、やっかいなのが軍事教練である。わたしはみじかい軍人勅諭すら暗唱できなかったものだから、配属将校にはこっぴどくしかられた。山岳部の部長でもあるモリマン(数学の森満教授)は、なにかにつけかばってくれたようだ。片頬に手をあて、「こまりましたなあ」とつぶやくのが癖だったモリマン教授は、点がからいことで有名だった。わたしは数学が大の不得意だったが、モリマン教授は山岳部におけるわたしのリーダーとしての力量をたかく買ってくれていたのだろう。授業には出ていたが、心はあらぬところをさまよっていたわたしの進級に際しても、陰で力になってくれたらしい。エンタツ(動物学の石橋栄達教授)、チンクシャ(植物学の鈴木靖教授)といった教授も記憶にのこっている。授業には不熱心でも、山の本をよむうちに外国語の力は自然と身につき、やがてクラスの仲間相手にドイツ語の補習をひきうけたこともあった。
『今昔物語』に「飛騨の 工」という建築の名人の話がある。かれがつくったお堂へはいろうとすると、あいていた扉が自動的にしまってしまう。つぎの扉にむかうと、これもまた目のまえでしまる。飛騨というのは、この大工の出身地であろうか。
一九八六年に両眼の視力をうしなってから、わたしはもっぱらラジオにしたしんでいる。主として、ニュースと音楽である。
当時の京都府山岳連盟は、この日本最南端の島にささやかなエクスペディションをおくりだした。隊長は今西錦司氏で、隊員は好日山荘の西岡一雄老人とわたしであった。親と子と孫ほど年のちがう三人だった。いまでこそ、屋久島には空港があり、飛行機でゆけるが、当時はそんなものはなく、鹿児島から船でいった。 種子島 で一泊して翌日、島の東岸の 安房 についた。ふたつの営林署が島の領主のようなもので、森林の保全と開発にあたっていた。交通路もほとんどなく、ただ、安房川にそうて森林軌道がいくらかのびていた。
屋久島は雨のおおいところである。山のくだりには、わたしたちは林間で番傘をさしてあるいた。木のあいだからながれおちる雨が棒状につながって、まるでうどんがたれさがっているようだった。屋久島の人たちは「ここではひと月に三五日雨がふるのよ」といった。とくに山間部の雨量がおおく、花之江河の記録では、最高年雨量は一万四〇〇〇ミリメートルに達した年もあったという。 わたしたちは島を一周して、宮之浦の集落にでた。当時は一周道路というほどのものはなかったが、いまでは多分整備されていることであろう。
最近に島をおとずれたひとの話をきくと、この半世紀間の島の変貌ぶりにはおどろかされる。観光地としての開発がすすみ、道路や宿泊施設がずいぶんととのえられているようである。インターネットのホームページをひらくと、おどろくほどの情報がもりこまれている。おそらくは観光開発にそれだけ力がはいっているのであろう。
日本人は古代から山を愛し、山を神のすみかとしてあがめてきた。そして各地に特異な山岳信仰を発達させてきた。山はまた、日本人にとって自然科学のための教室であった。日本人は山のゆたかな自然を観察し、解読してきた。中世以来、各地の旅行者、自然観察者によるおおくの地誌類がそれをものがたっている。とくに、本草家たちによる植物学、動物学の知識の集積には目をみはらせるものがある。
青少年たちは山にゆかなくなったという。都会には、青少年たちをひきつけるおもしろいあそびが満ちあふれているからであろうか。これはしかし、ゆゆしき一大事である。日本の青少年たちが山へゆかなくなったことは、そのまま日本の野外科学の衰退をまねきかねないであろう。山やまは、たしかに危険に満ちている。いたましい山岳遭難の事例をみて、現代の親たちが子どもを山にやりたがらないのもわからなくはない。しかし、山には都会にない別種のおもしろさ、たのしさがいっぱいある。そのことをわかものたちにおしえ、登山を奨励しなければならない。
安全を確保しつつ、野外科学の伝統をわかものたちに継承させる手だてはいくらもある。日本の野外科学の隆盛を維持するために、われわれは国際山岳年を機会にいっそうの方策を講じる必要があるであろう。国際山岳年は山の自然の保護というだけでなく、日本文明の将来についても、かんがえなおすきっかけとなるのではないか。
二〇〇二年八月二五日(日)の午後、北日本新聞社は国際山岳年を記念して立山フォーラムを開催した。立山を中心に富山の将来の観光や環境保全のありかたをかんがえようというもので、わたしはそこで記念講演をおこなった。話の引きだし役は松島和美さんで、会場は富山市内にある富山全日空ホテルであった。
立山は富士山(三七七六メートル)、白山(二七〇二メートル)とならび日本三霊山と呼ばれる信仰の山です。立山町 芦峅寺にある立山博物館には、浄土と地獄のようすをえがいた立山曼陀羅や、立山信仰をめぐるさまざまな資料がよくあつめられています。曼陀羅というのは仏教の世界におけるさとりの構造をしめしたものですが、もともと立山は仏教ではなく、神さまに対する信仰であったはずです。そのなかに、このような仏教の世界の話がまじってくるのは、修験道がさかんになった奈良朝以降のことでしょう。修験道というのは、神仏混淆 の宗教なのです。
登山家には自然に対する愛情があります。山がすきなのです。ですから、この自然がいつまでも、このままの姿でのこっていてほしいとおもっているのです。山が開発されることがきらいで、他の登山者がはいってくるのもいやで、自分たちだけで山を独占したいというのが本音です。山で観光客の姿をみると、「ここも俗化したな」とおもってしまうのですが、かんがえてみれば、自分自身も山にとってはよそからの侵入者で、本質的に観光客と変わらないはずです。俗化の先兵なのです。この点では、登山家は自己矛盾をかかえた独善的な存在なのです。
梅棹 そうでしょうな。ヒマラヤに行ったら巨大な氷河がいくらでもありますから。とくにわたしがさっきいいました、カラコラム・ヒンズークシのヒンズークシのほうには氷河はありませんが、カラコラム、今の国でいうとパキスタンですね、あそこに巨大な氷河がのたうっています。あれはおもしろいと思いますよ。 中嶋 ごらんになられたのですか。 梅棹 わたしはヒンズークシ隊だったので見ておりません。カラコラムへは踏み込んでいないんです。アフガニスタンには氷河がない。しかし、もっと北のチベットでわたしは初めて氷河を見ました。氷河の末端まで行っております。それからずっと西の天山山脈のほうには氷河があります。パミールですね。雪氷学は山の学問としては、世界的にたいへんおもしろいテーマだと思います。
梅棹 ひとつは山岳史、山の歴史ですね。これはヨーロッパでは非常に盛んにやっております。ついでに、わたしの経歴の中から拾いだして申しあげますと、わたしの高等学校時代には、京大に山岳部はなかったんです。京大では旅行部と言っていました。
すべての学者が山をいつくしむことはありません。しかし、山は学者を育みます。育てます。それは、さきほど学問は知的腕力だなんていいましたけれど、学問というのは体力を伴うものです。全人格的、全人間的なものです。体、肉体の運動を伴うわけです。それを伴わない学問、そんなひ弱なものはだめなんです。
たしかに、先生のタフなフィールド・ワークはつとに有名ですが、一方で、わたくしはよく存じ上げているのですが、先生はたいへんな読書家でもいらっしゃる。十分な文献渉猟の後ではじめてフィールドにむかわれる、そういう姿勢を常々いたく尊敬しておりました。やはり山岳科学では、フィールド・ワークも重要だけれども、文献的な裏付けもしっかりやるべきだとお考えでしょうか。
学問といえば本を読むことだと心得ている人が実に多いんですが、そうではないんです。学問は、確かに本を読む必要がありますけれど、自分の足で歩いて、自分の目で見て、自分の頭で考える。そしてアウトプットを出す。これが一番大事なことです。新しいものが出てこなかったら、なんだってことになる。他人の言説を本で読んでそれを受け売りしたら、こんなものは何が学問ですか。それは「お勉強した」というだけのことです。
本を読んでも、本以上のものはなかなか出ません。自分の体験が新しい本を生み出す。本を読んで、それを少し変えて出すのとは違う。オリジナルなものを出すということは、自分の足で歩き、自分の目で見て、自分の頭で考えて初めて出てくる。そうわたしは思っております。
梅棹でございます。こういう講演の場には、わたしは原則として完全原稿を用意することにしておりましたが、十数年前に突然に失明をいたしまして、現在盲人でございます。それで、原稿やメモなどを書くことも読むこともできない。きょうは江本さんに「誘導尋問」をやっていただいて、それにお答えするという形でお話をさせていただきたいと思っております。江本さん、どうぞよろしくお願いします。
梅棹 わたしは学校で習う学問より、はるかに大きなものを山から受け取っているんです。山はすべての教室です。わたしは後に科学者になるわけですが、科学の目はみんな山で養われたんです。 わたしは、大学は生物学、特に動物学をやったんです。動物を見る目、植物を見る目、自然を見る目は山へ行っていたころに培われたんですな。
そうです。山は、言うたら垂直志向、高いところへ登るという衝動でしょう。もうひとつは水平志向というのがありました。遠くへ、広い水平に伸びていこうという衝動です。わたしはどちらかというと水平志向のほうになってしもうたんですね。そして、結局は探検というような道をたどることになった。
梅棹 ない(笑)。しかし、本格的にアルプスを開拓したのはイギリス人です。アルプスへ行って、現地でスイス人を雇うんやね。スイス人自身は自発的に山を楽しんだりしない。日本の学生アルピニズムの伝統は明らかにイギリス的なものです。 小山 それは装備ですか、技術ですか。 梅棹 考えかたから技術まで、いっさいがイギリスふうです。われわれは、まったくの正統アルピニズムです。のちに、たとえばアルピニスモ・アクロバーティコとか、そういう変なものがいっぱい出てくるが、それは大陸でできたものです。
梅棹さんと話していたり本を読んでいたりすると、自然観察の鋭さを感じる。たとえば、飯田から遠山へぬけようとした道に大きなエノキがあって、そのまわりをオオムラサキが群れ飛んでいたとか。
わたしは登山家だけれども、基本的に、スタートが自然科学者なんです。
本は読みます。でも、それはどこまでも知識の補充やな。本を読まないことには、チョウチョの学名ひとつわからへん。しかし、本の知識というのは所詮それだけのものです。
自然科学の基本と同じやな。自然愛好心です。
ずいぶん本を読んでます。アカデミック・アルパイン・クラブ、つまり研究と登山が一体になった基礎ができてるんやな。三高山岳部で最初にこれを読めといって渡されたのが、英語の原書やった。何の本やいうたら、栄養学の本や。カロリーからずっと食物の栄養の概論が書いてあって、これでこの夏の登山の食料計画を立てろというわけです。
このたび、「梅棹忠夫・山と探検文学賞」がうまれました。世のなかには、個人の名まえを冠にした賞がおおくありますが、まさか、わたしがその仲間いりをするとは想像もしませんでした。
梅棹 忠夫
(うめさお ただお、1920年6月13日[1] - 2010年7月3日[1])は、日本の生態学者、民族学者、情報学者、未来学者。国立民族学博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授、京都大学名誉教授、理学博士(京都大学、1961年)。従三位勲一等瑞宝章。日本中東学会初代会長を務めた。1963年に発表した「情報産業論」はセンセーションを巻き起こした。今では当たり前の言葉になった「情報産業」という言葉を初めて用いた[2]。1964年には自身を中心とした若手研究会による私的研究会「万国博覧会を考える会」を発足。小松左京が万博に参加するきっかけを作った[3]。「京大式カード」の生みの親でもある。アフガニスタン、東南アジアなどを実地踏査し、世界を西欧と日本の第一地域と、それ以外の第二地域とから成るとした『文明の生態史観序説』(1957年)を発表した。他の著書に『知的生産の技術』(1969年)など。日本における文化人類学のパイオニアであり、梅棹文明学とも称されるユニークな文明論を展開し多方面に多くの影響を与えている。京大では、今西錦司門下の一人であった。生態学が出発点であったが、動物社会学を経て民族学(文化人類学)、比較文明論に研究の中心を移す。代表作『文明の生態史観』の他、数理生態学の先駆者(オタマジャクシの群れ形成の数理)でもあり、湯川秀樹門下の寺本英が展開した。さらに、宗教のウィルス説を唱え、思想・概念の伝播、精神形成を論じた[注釈 1]。梅棹はその後も宗教ウイルス説を展開し、後継研究もあり一定の影響を及ぼす[注釈 2]。宗教ウイルス説は、文明要素(技術・思想・制度)が選択により遷移していくという遷移理論を柱にする文明の生態史観の一例であり、基礎の一つである。梅棹は青年期より登山と探検に精を出し、数多くのフィールドワークの経験からB6カードを使った情報整理法を考案、その方法をまとめた『知的生産の技術』はベストセラーになった[4]。モンゴルにフィールドワークに出かけた直後に原因不明の視力障害を患い、64歳で両目とも失明するが[5]、失明後はそれ以前よりも多数の著作を残した[4]。京都市に父・菊次郎、母・ヱイの長男として生まれる。1936年、京都一中(現:京都府立洛北高等学校・附属中学校)から4年修了(飛び級)で第三高等学校に入学。三高時代から山岳部の活動に熱中して学業を放棄し、2年連続で留年して退学処分を受けるも後輩や同級生からの嘆願運動で復学を認められた。京都帝国大学理学部動物学科在学中には今西錦司を団長、森下正明を副団長とする中国北部などの探検に参加し活躍した(『大興安嶺探検隊』(新版・朝日文庫、1992年)などを参照)。1955年には戦後初の本格的な海外学術調査となった京都大学カラコラム・ヒンズークシ学術探検隊に参加した[6]。モンゴルでの遊牧民と家畜群の研究を基盤に生物地理学的な歴史観を示した『文明の生態史観』(中公叢書、のち中公文庫、中公クラシックス)では「西欧文明と日本文明は並行進化」を遂げたと唱え[6]、日本文明の世界史的位置づけにユニークな視点を持ち込み、大きな反響を呼ぶとともに論争を巻き起こした。この主著は、後の一連の文明学におけるユニークな実績の嚆矢となった。1957年「第一次主婦論争」に「女と文明」(1988年に中公叢書)を書いて参戦し「妻無用論」を唱えた。1963年には『情報産業論』を発表する[6]。アルビン・トフラーの「第三の波」よりもかなり先行した時期に情報化社会のグランドフレームを提示した。一方で、梅棹は「情報産業」という言葉の名づけ親でもあった。その後の一連の文明学的ビジョンは『情報の文明学』(中公叢書、のち文庫)にまとめられている。1969年、フィールドワークや京大人文研での経験を基に著した『知的生産の技術』(岩波新書)はロングセラーとなり、同書で紹介された情報カードは「京大式カード」という名で商品化された。のちに「知的生産の技術」研究会が長年運営された(梅棹は顧問格)。1972年、中央教育審議会の委員に就任[7]。1974年、国立民族学博物館の設立に尽力し、初代館長に就任した[6]。1986年3月12日に原因不明の失明をしたため、それ以降の著述は梅棹の口述筆記によるものである。闘病記『夜はまだあけぬか』に詳しく、作家の司馬遼太郎とはモンゴル研究のつながりで長年の友人でもあった[注釈 3]。日本語のローマ字論者(ローマ字化推進論者)で[8]、1994年から社団法人日本ローマ字会第7代会長を務めた[9]。古くから漢字廃止論を唱えており[8]、特に失明後は漢語に多い同音異義語を重大な欠点として主張した。また、梅棹はエスペラント運動家(エスペランティスト)であり、世界エスペラント協会の名誉委員でもあった。主な著作(1990年初頭まで)は『梅棹忠夫著作集』[3](全22巻、中央公論社)に収録されている。イスラムに対しては、人と神がマンツーマンで接することができる宗教として共感を抱いている。2010年7月3日、大阪府吹田市の自宅で老衰のため死去。90歳没。梅棹は京都・北白川の自宅で毎週金曜の夜に「金曜サロン」、別名「梅棹サロン」を開いていた。梅棹邸の広間に研究者や編集者など多彩な顔ぶれが集まり、自然科学、人文科学、社会科学をはじめ、京都の話から宇宙の話まで談論風発した。すばらしく刺激的で、しかも堅苦しいムードは皆無の得難い集まりだった[2]。1963年の終わり頃、梅棹を中心に私的研究会ができ、小松左京も加わった。日本の行く末について幅広く議論するのだが、堅苦しい集まりでなく、知的な遊びのような雰囲気だった。メンバーは、林雄二郎、川添登、加藤秀俊それに小松で、林は当時経済企画庁の経済研究所所長、川添は建築評論家、加藤は京大教育学部の助教授だった。そうした人たちが個人の利益や金儲けや立身出世など考えないで、知的好奇心の赴くままに愉快に語り合った。日本をどうするのか、未来はどう切り開いていくのか、気宇壮大に、そして面白半分に語り合った。翌年の東京オリンピックが話題になっていて、「五輪の次は大阪で万国博」との情報が聞こえてきたのも、ちょうどそのころだった[2]。このメンバーを中心に1964年7月、「万国博を考える会」が発足。その頃、新聞などではまだ「国際博」という言葉を使っていたが、「国際」という単語には近代主義的、特に「戦後近代主義」的なニュアンスがつきまとってるという梅棹の意見に皆賛成し、あえて「万国博」にした。また国際というと欧米諸国のことだけしか思い浮かべないため、発展途上国のことも視野に入れてのことだった[3]。梅棹らは当初あくまで知的好奇心からくる私的な研究であり、国家プロジェクトとしての万博に関わるつもりはなかった[3]。1965年春、初めは非公式な接触だった。当時大阪府の職員として万国博の準備にタッチしていた人物が、密かに梅棹邸に訪ねて「万国博のやり方についてどう考えていいか、知恵を貸して惜しい」と申し入れた。彼は以前から梅棹に私淑していて、色々助言をもらっていた。また彼は小松とも三高、京大の同期である[3]。結局「自発的な研究会」として発足したのものが「非公式のブレーン」になり、しまいには表舞台に出たという形になる[3]。梅棹は事務局との関係について「婚約はしないが交際はする」との言葉を残した[3]。こうした中、11月の博覧会国際事務局 (BIE) の理事会にテーマと基本理念を提出しなければならないという事態が持ち上がっていた。桑原を副委員長にしたテーマ作成委員会は発足していたが、いかんせん時間がなかった。そこで梅棹、小松、加藤の三人に内々に協力要請があり桑原との関係上、理念作りに協力することとなった[3]。さらに今度はそのテーマをどう展示に結びつけるかというサブテーマへの展開が必要となり、小松と梅棹がテーマ専門調査委員会(通称サブテーマ委員会)の正式委員に名を連ねることになった[3]。1967年、岡本太郎がテーマ展示プロデューサーの役を引き受ける。梅棹は国家公務員なので動けず、小松に手伝うように依頼した[3]。
略歴
1920年(大正9年)6月 京都府京都市上京区千本通中立売上ル東石橋町33番地にて出生
1932年(昭和7年)
3月 京都市立正親尋常小学校第5学年修了[1]
4月 京都府立京都第一中学校入学[1]。博物同好会に入る。
9月 山岳部にも入部
1936年4月 第三高等学校理科甲類に入学[1][10]。山岳部に入部。
1937年 この年と翌年の山行きが100日を超え、落第
1939年1月 京都探検地理学会に入会
1940年7月〜9月 第三高等学校山岳部員として、朝鮮半島の咸鏡北路・咸鏡南路の山々を歩き、冠帽峰連山・摩天嶺山脈をこえて白頭山に登頂。北面を下り、第二松花江の源流を確認
1941年
4月 京都帝国大学理学部に入学[1]。主に動物学を専攻
7月〜10月 京都探検地理学会ポナペ島調査隊(隊長:今西錦司)に参加し、生態学的調査を行う。
1943年
9月 京都帝国大学理学部[1]動物学科卒業。徴兵検査にて第一乙種合格(戦車兵)となる[11]。
10月 京都大学大学院入学。特別研究生制度により入営延期となる[11]。
1944年 蒙古聯合自治政府の首都張家口に設立された財団法人蒙古善隣協会西北研究所の嘱託(後に所員)となる[1][11][12]。
1945年 終戦に伴い、内モンゴルから天津へ脱出。年末に北京へ移動[11]。
1946年 日本に帰国し、京都へ戻る。京都大学大学院に復学する[11]。
1949年4月 大阪市立大学理工学部助教授(1959年に理学部と工学部に分離)[1]
1955年 京都大学カラコラム・ヒンズークシ学術探検隊員[6]
1957年 大阪市立大学東南アジア学術調査隊長
1961年9月 京都大学より理学博士(「動物の社会干渉についての実験的ならびに理論的研究」)[1]
1963年 京都大学アフリカ学術調査隊員
1965年8月 京都大学人文科学研究所助教授[1]
1969年4月 京都大学人文科学研究所教授[1]
1973年 国立民族学博物館創設準備室長[1]
1974年6月 国立民族学博物館館長(初代)[1]
1986年3月 ほぼ失明状態となる
1988年3月 京都大学人文科学研究所名誉所員
1993年(平成5年)4月 国立民族学博物館顧問[1]、名誉教授[1]、総合研究大学院大学名誉教授[1]
1996年1月 京都大学名誉教授[1]
2010年(平成22年)7月 老衰のため大阪府吹田市の自宅で死去続きを読む投稿日:2024.03.13
梅棹集中読破第三弾!日曜日の山歩きに向かう電車で半分、帰る電車で残りの半分。文明の生態史観も日本探検も面白かったけど本書では梅棹忠夫がなぜ梅棹忠夫なのかの基本を感じることが出来ました。彼の学問のオリジ…ナリティとスケールはクライマーじゃなくてマウンテニーア、つまりオールラウンダーとして山全体を包み込むようなアプローチに由来するもの。垂直志向と水平志向、学術とスポーツ、文系と理系、狭いジャンル分けを超えて統合することを求め続けていきます。「山は高さだけが問題ではない。いちばん大切なのは、未知なるもの、ということ。デジデリアム・インコグニチ(未知への探求)、これが一番大切なことなんや。学問やってても、これは一貫している。」頭ではなく、足で考えることに誇りを持つ巨人の宣言です。正しいことではなくて面白いワクワクを。彼から学ぶこと、いっぱいです!続きを読む
投稿日:2017.02.06
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